経営理念、日本経営 ブログ

経営理念、日本の経営、自分のマネジメント、経営者インタビュー、経営コンサルタント、中小企業、ベンチャー、大学経営、経営を志す若者、就活、経営学の知識,哲学 etcといったようにみんなの選択が広がり、興味を探求するブログ

笑うことと、泣くことってどうして生まれるのか?クラブいく若者の理由って?

心のカタルシスという言葉があります。カタルシスって言葉知ってますか?

知ってる人は知っていると思いまが心のゴミを捨てるという行為、要するに【浄化】を意味します。

心のゴミを浄化する時間がとれていますか?笑うことや泣くことの共通する浄化作用が日々の中でどれだけできているか一度振り返ってみてもいいと思います。

f:id:nihonkeiei-keieirinen-daigaku:20150921164104j:plain

http://animepost.blog.fc2.com/blog-entry-120.html

(とりあえず一番下までみてください。アニメの詳細は一番下。)

 

ではなぜ心のゴミを浄化すべきなのかというと、人間は何事も余裕が大事だと思っています。対人関係の余裕はこのジレンマの多い人間社会で大切になってくると思っています。例えば、自分を守るための発言が多い人っています。「人に傷つけられてたくないから先に悪口をいってみる。」「初めましての人が多い時に仲のいい子に普段より余計にきつく当たる」などいわゆる自己防衛からの言動しかできない人って人間的な余裕を感じませんよね?

そのように余裕を持たせるためにたくさん、笑う、泣くことって重要なのだと私は思います。

そこで今回のテーマはカタルシスがテーマの記事にしたいと思ってます。

 

自分自身に起これば恐ろしいことがらが、他人に起こるとき、痛ましさの感情が生じる。

カタルシスとは、悲劇の効用を、観客に自分の悲しみを瀉出させ、感情を浄化させる

点に求める立場である。「悲劇を観ると悲しみはいっそう深まるだけで、悲しみが瀉出されるということはない」と言って、この解釈に反対し、悲劇の効用を、道徳的な魂の浄化に求める道徳的教訓説もある。だが、悲劇は勧善懲悪劇ではない。アリストテレスも言うように、悲劇の主人公は、観客の憐れみの対象とならないような悪人であってはいけないのであり、むしろ、平均的な観客が自己と同一化することができるようなタイプの人物でなければならない。観客が悲劇に期待するものが、お説教でないとするならば、何なのか。それは通常、悲しみだと考えられている。しかし、もしも悲劇を観ることで悲しみがよりいっそう大きくなるとするならば、つまり苦痛が大きくなるとするならば、なぜ観客は、わざわざ貴重な時間を割いて、金を払ってまで悲劇を見に行こうとするのか。時間と金を消費してまで悲劇を観ようとするということは、観客が悲劇に期待しているものが、苦ではなくて快であるということである。

災難が我が身に降りかかることは苦だが、その悲しみを打ち消すために涙を流すこと自体は快である。悲劇の観客は、災難に遭うことを自分たちの分身である悲劇俳優に代行させて、その分身に同情し、涙を流す快だけに与る。だから、悲劇を観ることは娯楽でありうるのだ。この点、悲劇を観ることは、生贄を屠る儀式に参加することと似ている。誰も生贄にはなりたくないし、悲劇的な体験の当事者にもなりたくない。だが、大衆は、生贄を殺害して聖なる恍惚を経験することや、悲劇を観てカタルシスを経験することなら好んでするのである。これはたんなる比喩ではない。生贄の儀式と演劇は歴史的につながりがある。歌舞伎の桟敷はもともとは犠牲の場であった。また、生贄の儀式とは少し異なるが、公開処刑なども、娯楽の少なかった過去の時代においては、大衆にとっては格好の見世物であり、気晴らしだったのである。「桟敷」という言葉は、現在では、演劇や祭りや相撲などの興行物を見るために高く作った見物席という意味で使われるが、もともとは、罪人を磔殺(はたもの)に処するための高台だった。つまり、見世物を見るための場ではなく、見世物にされる場だったのである。この逆転は、悲劇を観るものと犠牲者との一体化のうちに生じてきたものと推測できる。
【クラブにいく一部の若者の理由】
アリストテレスは、『政治学』で、神憑的音楽による宗教的熱狂にもカタルシス効果があると言っている。今の若者が、クラブで「エクスタシー」(忘我)とよばれるドラッグを服用し、「トランス」(恍惚)とよばれる音楽を聴きながら「アゲアゲ」になって「気晴らし」をしているのを思い浮かべるとわかりやすい。「忘我」的「恍惚」状態において、人は、魂が身体から抜け出でて「上昇」し、心が肉体的な穢れから浄化される、文字通り「気が晴れる」ような浄化の体験をする。これが、供犠執行時の神秘的体験と同じである。アリストテレスは、カタルシスについては、『詩学』で詳しく論じると言っている [。しかし、現存の『詩学』第一巻では、カタルシスという言葉が悲劇の定義に使われているだけで、カタルシスとは何かについて詳しくは論じられていない。『詩学』は、第一巻で悲劇を、第二巻で喜劇を論じることになっていたので、アリストテレスは、失われて読むことのできない第二巻で、カタルシスについて詳しく論じていたと推測することができる。
パリ国立図書館所蔵のコワスラン文庫120番と名付けられた、アリストテレスなどの著作からの抜粋集には、「喜劇は、滑稽にして、大いさを欠くが、まとまった行為の描写であり、作品のそれぞれの部分ごとに、その種類に応じて、行動や報告によって描写を行い、快と笑いを通じて、このような感情のカタルシスを成し遂げる」という一文がある 。この文が、『詩学』第二巻の中の一文なのかどうかは極めて疑わしいが、アリストテレスが、カタルシスを喜劇の効用と認識していた可能性は高いと私は考えている。笑いは、現実が期待以下であることによって増大するエントロピーを縮減する防御反応である。
現実が期待以下である、つまり失敗は、それ自体は苦だが、その失敗を笑い飛ばすことは快である。喜劇の観客は、失敗することを喜劇俳優に代行させて、その失敗を笑い飛ばす快だけに与る。だから、喜劇を観ることは娯楽でありうるのだ。このように、笑うことと泣くこと、喜劇と悲劇は、通常考えられているほど対立的ではなく、カタルシスという点で共通点が多いです。
 
結論なにがいいたいかというと、そのようなカタルシスの共有も大事だと思っています。
そこで、このアニメをお勧めします。正直、オタク系の描写のアニメは自分の固定観念が邪魔して今までみてこなかった部分が大きいのですが、今回どんな、映画よりも、どんな漫画よりも最高に泣けるアニメがあるのでその紹介です。

f:id:nihonkeiei-keieirinen-daigaku:20150921163912j:plain

 
 
アニチューブで無料で、何も害なく見れますので是非みてください。
そして感想を教えて欲しいです。
 
ちなみに毎回この迫田の記事を読みたいよーて人はfacebookページ作ったんでそっちのいいね押してもらえると泣いて喜びます。笑